お堀に囲まれた鶴岡公園は、城址公園として、当時の面影を数多く残しています。
稲荷神社は、宝永5年(1708年)、庄内藩6代藩主 酒井忠真公が、当時の鶴ヶ岡城二の丸東北隅に城内鎮守として創建した神社。以来歴代藩主の厚い崇敬があり、年1回の祭日には、城下の人々も参拝が特別に許され、城内は大変な人出だったといいます。
明治維新後、お城取り壊しの際も、稲荷神社だけはそのまま残されました。これは藩のみならず一般民衆の崇敬が厚かったからであろうと言われています。
荘内神社参道わきの土留石や、神社の柵の土台など、ところどころで見かける白っぽい石は、かつて石垣に使われていたもの。また、鶴ヶ岡城の赤瓦は、松ケ岡の蚕室や鶴岡公園周辺等の西洋建築の多くに再利用されています。
文明開化の名棟梁 高橋兼吉 ~鶴岡のシンボルをつくった男~
◆鶴ヶ岡城のうつりかわり
鶴ヶ岡城は古くは大宝寺城とよばれ、鎌倉期以来戦国期まで庄内に君臨した武藤氏の居城であった。
天文年間(1533年頃)兵火のため武藤氏は大山の尾浦城に居を移し当城はその枝城となった。
天正15年(1587年)武藤氏が滅び庄内は越後の上杉氏そして慶長6年山形の最上義光の支配するところとなる。
慶長8年(1603年)大宝寺城は義光の隠居城として修復され、鶴ヶ岡城と改称する。
元和8年(1622年)最上氏改易の後、信州松代より酒井忠勝が入部。庄内14万石(幕末17万石)の本城としてそれにふさわしく整備拡充された。
酒井氏は徳川幕府譜代の大名として明治初年まで約250年間、庄内を治めるが戊辰戦争において抗戦の末官軍に降伏開城。
明治8年(1875年)鶴ヶ岡城解体。本丸、二の丸が公園となり本丸跡に荘内神社が建てられた。
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