幕末志士 新徴組の墓地 ばくまつしし しんちょうぐみのぼち

庄内藩士とともに江戸の治安を守った新徴組。慶応4年(1868)3月、庄内藩の江戸引きあげに伴い、新徴組隊士とその家族も随行。藩では湯田川温泉の宿屋と民家37軒に仮分宿させ、湯田川在住中に没した隊士及びその家族20名の慰霊が眠っています。

新徴組について・・・
新選組(新撰組)が、京都の治安を守るために活躍したように、江戸で活躍した「新徴組」という集団がいました。江戸時代末期に清河八郎の献策によって幕府が徴募した浪士組の後身です。

文久3年(1863)2月、幕府は上洛する将軍 家茂の警護に浪士組をあたらせ、京都・壬生村に駐屯させました。そこで組長格である清河八郎は、浪士組の隊士を前に尊皇攘夷を唱え、その真意を明らかにします。隊士全員の同意を求めましたが、近藤勇ら13名はこれに従わず、京都守護職 松平容保のもとで新選組となった話はあまりにも有名です。

将軍警護の任を解かれた浪士組は江戸に戻り、幕府は清河八郎を暗殺、これに同調する幹部を逮捕。残った浪士組は再編成され新徴組となりました。新徴組は、当時、江戸府内の取締りの任についていた庄内藩に預けられ、庄内藩士とともに江戸の治安を守りました。

その後、倒幕派との「戊辰戦争」が始まり、慶応4年(1868)3月、庄内藩の江戸引きあげに伴い、新徴組隊士とその家族も随行。湯田川温泉の宿屋と民家37軒に仮分宿させました。庄内藩と新徴組は、会津藩や新選組とともに戊辰戦争を戦い、湯田川にある墓地には、湯田川在住中に没した隊士及びその家族20名の慰霊が眠っています。

このほか、「新徴組御本部跡」の碑が湯田川温泉・隼人旅館前に建立されているほか、庄内藩が新徴組士とその家族のために建てた「新徴組屋敷」が、羽黒町松ヶ岡に移築復元されています。また、幕府によって暗殺された清河八郎も、明治維新後は新政府に功労者として祀られ、氏の出身地である庄内町清川(旧立川町)の「清河八郎記念館」には、遺品並びに明治維新資料百数点が収蔵・展示されています。

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