徳川四天王、 酒井忠次と
徳川家ゆかりをめぐる旅

▼朱塗黒糸威二枚胴具足 (山形県指定有形文化財、 致道博物館蔵) 酒井忠次所用の甲冑
【写真提供:致道博物館】
朱塗黒糸威二枚胴具足

徳川四天王・酒井忠次

庄内藩主酒井家の先祖は、もともと三河国(現在の愛知県東部)を本拠地としていました。初代は、徳川家康に仕えて活躍した酒井忠次です。忠次は家康よりも15歳年上で、親戚関係にあり、家康の重臣として多くの功績をあげました。のちの時代には徳川四天王の1人にあげられています。

1560(永禄3)年、桶狭間の戦いで織田信長が今川義元を討ち取ると、家康は信長と同盟を結んで勢力を伸ばします。三河国を統一した際には、忠次を東三河にいる家臣団たちのリーダーに抜擢しました。その後も忠次は、1575(天正3)年の長篠の戦いなど数々の合戦で活躍し、家康の立身出世を支えました。眼の病気を患っていたため、1588(天正16)年に隠居しますが、当時の天下人であった豊臣秀吉からも優遇され、京都に屋敷地を与えられて晩年を過ごしました。

徳川十六将図
▲ 徳川十六将図 (致道博物館蔵) 酒井忠次は徳川家康の すぐ左下に描かれています
【写真提供:致道博物館】

譜代大名・酒井家
の転封

1600(慶長5)年、関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利すると、3年後には江戸幕府が開かれました。酒井家は、譜代大名として徳川家を支えていきます。譜代大名とは、関ヶ原の戦い以前からの家康の家臣で、大名に取り立てられた者のことです。

忠次から家督を譲り受けた2代・酒井家次は、関ヶ原の戦いや大坂冬の陣・夏の陣などに参戦して活躍します。この間、先祖代々の地である三河国を離れて、下総国(現在の千葉県・茨城県周辺)臼井、上野国(現在の群馬県)高崎、越後国(現在の新潟県)高田へ転封(幕府に命じられて領知替えすること)を繰り返します。そして、3代・酒井忠勝が家督を継ぐと、信濃国(現在の長野県)松代へ転封し、その後、出羽国(現在の山形県・秋田県)庄内へと移ることとなります。

正保庄内絵図
▲ 正保庄内絵図(鶴岡市指定文化財、致道博物館蔵)1646(正保3)年
【写真提供:致道博物館】

徳川家と酒井家の紋

  • 東照社の写真

    徳川家の三つ葉葵の紋は元々は酒井家の紋で、戦国時代、松平家(後の徳川家)からの依頼に酒井家が献上し、代わりに松平家から「丸に酢漿草(かたばみ)」の紋を賜ったともいわれています。鶴岡市内では次の場所などで徳川家の紋を見ることができます。

  • 羽黒山 東照社の写真

    羽黒山 東照社

    寛永18年(1641年)に羽黒山の第50代天宥別当が徳川幕府の宗教顧問である天海僧正の弟子となり、改宗の条件のひとつとして東照権現の羽黒山への勧請の周旋を申し出たといわれています。天海僧正による働きかけもあり、庄内藩主酒井忠勝によって社殿が寄進され、現在の社殿は昭和に解体復元されたもので、外観にも三つ葉葵紋が確認できます。

    羽黒山 東照社
  • 浄土宗 大督寺の写真

    浄土宗 大督寺

    酒井家の菩提寺。本堂欄干には、酒井家の丸に酢漿草紋が掲げられ、ご本尊前の前垂れに掲げられる三つ葉葵紋は浄土宗の紋です。徳川家康の菩提寺も浄土宗であり、徳川家の許しを得て三つ葉葵紋は浄土宗の紋として掲げられるようになりました。徳川家康の忠臣としての酒井家の繋がりの他、浄土宗としての徳川家康とのゆかりも感じられる寺社です。

    浄土宗 大督寺
  • 瀧水寺 大日坊の写真

    瀧水寺 大日坊

    後の三代将軍家光である竹千代の身体堅固、将軍跡目のため、乳母であるお福(後の春日局)が祈願に訪れたといわれています。大日坊には三つ葉葵紋が入った文状箱等が献上され、現在まで大切に保管、公開されています。 その後も家光が病の際に平癒祈願へ直臣が代参するなどゆかりある寺社です。

    瀧水寺 大日坊

徳川家がここにも!

鶴岡市内には徳川家ゆかりの名品が残っています。

太刀 銘 信房作(国宝、致道博物館蔵)の写真
▲ 太刀 銘 信房作(国宝、致道博物館蔵)
小牧長久手の戦いで功績をあげた酒井忠次が徳川家康より拝領した太刀【写真提供:致道博物館】

致道博物館

酒井家ゆかりの地を
めぐる
モデルコース4選!

鶴岡市内には、鶴ヶ岡城跡や東北地方で唯一残る藩校建造物があり、今も当時の面影を残しています。

殿様も愛した庄内の
おいしい食

鶴岡の食文化は、数百年にわたり大切に受け継がれ
「ユネスコ食文化創造都市」に認定されています。

鶴岡の食文化
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